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「東京大虐殺」の続き

九十九式: [jiji][net] 空襲と原爆の評価@九十九式系
http://type99.net/2005/03/jijinet.html

しかもここでの比較は米兵の犠牲の数の多寡であって、日本側の犠牲者数ではない。当たり前だ。いくら上陸作戦が決行されたからといって、民間人が50万人も死ぬものか。(そもそも軍人と民間人の犠牲は別問題。)

「上陸戦なら一度の戦闘では10万人は死なないだろうか、累計で都市空襲による死者数を超える可能性は非常に大きい」と書いたように、ここでは米兵の死者数ではなく日本側の死者数を問題にしていると書いたつもりでした。
九十九式: ファルージャの虐殺
http://type99.net/2004/05/blog-post_108356292187064697.html
以前、宮本さんが書かれたこの記事でも「居住地での市街戦になるとその犠牲者数は急増する」と書かれてましたよね。
War in OKINAWA at WWII
http://www.cda.ics.saitama-u.ac.jp/~maekawa/war-okinawa.html
なお、沖縄の民間人の死者数が9万人と書かれてましたが、こちらのデータを見ると沖縄県内の人間の死者は14万7959人だそうです。沖縄県内の人間が民間人で、沖縄県外の人間が軍人だと考えられるそうなので、この数字が民間人と考えてよいのでは。なお、軍人や外国人を含めると23万6660人だそうです。
アメリカが、都市空襲や原爆といった民間人を対象にした国際法違反の作戦を行わず、あくまで戦闘員を対象にする作戦を実行すべきだったと考えた場合、日本が降伏を受諾しなかったのですから、最終的に上陸戦になります。その時でも、塹壕などの軍事施設を爆撃するでしょうから、居住地近くにそういうものを作っていた当時、民間人の死者は避けられません。本来なら、居住地と軍事施設は分けるべきなのに、一緒にしていたのは日本側です。
また、戦闘員を対象にした作戦といっても、当時の日本は、米軍が上陸してきたら民間人も積極的に戦闘に参加するような国策をとってました。ということは上陸戦時に、民間人が攻撃してきて、その民間人は国際法上でいったら、民間人ではなくゲリラ扱い。だから、殺されても国際法上は問題ないということになってしまったのではないでしょうか。南京虐殺と同じような問題が、日本国内の各所で発生することは考えられます。
こうして沖縄戦などいろいろな情報から考えると、アメリカの上陸作戦が行われた場合、民間人が50万人以上死ぬような事態は充分ありえると思います。また、直接戦闘による死者だけではなく、本土内で戦闘が行われることによって、食料事情は極端に悪くなるでしょうから、飢餓による死者も増えたことでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050210#hata
この時にも書きましたが、第二次世界大戦で日本の戦死者は中国での戦場をのぞくと約150万人。そのうち、約7割は餓死、または栄養失調の結果、病気を併発するというものでした。
もちろん、これらはあくまで予想でしかないですから、上陸戦になったとしても、空襲や原爆での死者以上の数は出なかったと考えるのもご自由です。ただ、自分の考える根拠を説明した次第です。

それを氏は、アメリカ兵が死なないためには、日本人が数十万人虫けらのように焼き払われてもいい、と言っているのである。

だから、このようなことは主張しているつもりはありません。また、念のため書いておきますが、この手の話をするとよく出てくる日本軍も民間人を虐殺するような事件を起こしているから相殺されるということも考えていません。
あと、原爆投下に関しては、通常の都市空襲と異なり、当時のソ連への威嚇や実験の要素が強いのではないか?というのは理解しています。ただ、原爆がなかったら、日本政府は降伏を考えずに上陸戦が起きた可能性は高いだろうということを考えたのです。
あの比較で一番主張したかったかといえば、敗戦にいたる当時の日本政府の判断の問題です。開戦も当然充分無茶でしたが、戦争の目的をはっきり限定して、その目的を達成して交渉を始めれば、有利な条件で講和を結べた可能性はあります。第二次世界大戦時の日本の作戦をみるとわかりますが、目的がなし崩しに増えていった作戦がたくさんありますが、こういう無目的性が、悲惨な負け方に繋がったと思うのです。
日本は、戦後、戦勝国による裁判であったために、日本が戦争をしていた国相手の戦争犯罪しか取り上げらず、国内の問題は棚上げにされてしまいました。本当なら、日本政府による国民への罪を、自らの手で裁くべきだった。それは、最近だとイラクでのフセインの裁判なんかにも近いものがあります。やはり自分の国の指導者の罪は自分たちで裁かないとあとあと遺恨を残すだろうと。
当時の日本政府の戦略性のなさというのは、現在の日本政府にも感じるところはあるので、今一度考えると、現在に繋がるのではないかと考えています。
BigBan: 「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(4)---東京大空襲60年
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/03/60.html
この記事を書かれたBigBanさんが、こちらでコメントしていただいていて(http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050313#c)、

問題はアメリカへの恨みつらみで終わってしまってはいけないのだろうと思っています。ですが、今日のこの同盟関係という名を借りた支配関係の中でどのようにしていくべきなのか。用語の言い換えにもまして、そこが課題ですね。

これには自分も共感します。宮本さんの記事は読んでいるとアメリカへの恨みつらみだけで終わっている感がありました。これの行き着く先は、反米だった新右翼、今でいえば小林よしのりや窪塚的な反米なのではないかという気がしました。
あと最後に。名前を間違っているので訂正していただけると嬉しいです。