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最近はオーディオブログです

コミュニケーションの可視化が起こす問題

アンテナ派閥話に関連して、刺身さん(id:a666666)のmixiの日記で興味深い話があった。どこにでも転載オッケーだそうなので転載してみる。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=24628766&owner_id=9280

2005年07月05日
01:25
・インターネットは人気者とのけ者の構図をリセットできるツールじゃなかった話
オフラインの人気者を恨めしく見ていたのけ者がインターネットにこぞって集まった結果、その集団の中でやっぱり人気者とのけ者が出てきてしまって才能ある人気者はより栄え才能のないのけ者はより孤独になっていく構図はどんなに社会の単位が細分化しても起こりうるものなんだろうなあと思った。
なんかモヒカン族とかはてなレスラーとか、人気者な人たちは楽しそうでいいなあと。それを心底うらやましいと思いつつ眺めてる自分がすごいデジャヴだぜと思ってあーこれはスラムダンク全盛期にクラスの男子の90%がバスケ部だった中学一年と同じような感覚なのだなあと思った。人気者、主流派のグループに入れない男子卓球部所属の俺。

最近ネットで起こる出来事を見ていて、ぼんやりと考えていたことはこんなことだった。「場」が出来れば、人が集まるところ、集まらないところはどうしてもできてしまう。以下に書くことは長文だが思考メモなので、まとまりとか流れとか読みやすさは全然考えてない。

リアルとネット

ネットというのは、現実社会で疎外されていると思った人たちの楽園だった。自分も、ネットを通して、普通に生きているだけでは知り合えなかっただろう人たちと出会えた。それまで、人と知り合う機会は住んでいるところ、通っている学校や勤めている会社といった場に規定されていたが、ネットはマイナーな価値観を持っている人同士をマッチングするのに長けていたからだ。
しかし、ネットの一般化は、ネットに現実社会と同じルール・価値観を持ち込むこととなった。その上、ブログやSNSなど、コミュニケーション部分を強化したツール、サービスの登場によって、この構図はどんどん強化されている。
現実社会の方からネット世界へのアプローチも増え、芸能人や会社経営者など、現実社会の権威、人気を持ち込む人も増えてきた。以前ユリイカのブログ作法特集の対談記事で鈴木謙介氏が指摘していたように、ブログは現実世界の人気者をより人気者にするツールとなっている。
※参考
おれはおまえのパパじゃない - ネットはリアルへの足がかりなのか
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20050524/1116947223
おれはおまえのパパじゃない - ネットとリアル
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20050526/1117112248
おれはおまえのパパじゃない - ネットとリアル 2
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20050619/1119143610

細分化

一般化によって「場の細分化」(島宇宙化)がどんどん進み、場によるプチカリスマが生まれていく。プチカリスマがその場の中心を作っていく。
※参考 ARTIFACT ―人工事実― | ネットの中心を見出す中華思想
http://artifact-jp.com/mt/archives/200403/netsinocentrism.html
その細分化された場の中でも主流派、非主流派は生まれる。現実社会で疎外されていると思った人が、ネットでも疎外されていると感じた時、逃げ場はどこにあるのだろうか。
現在のメディア状況では「地上波テレビ」が最強(一番数が多くの人が信じる)の中心だが、この最強の中心はネットにもどんどん影響を及ぼしている。どちらも「無料で楽しめる」という点で同じだからだ。「受動」で楽しめるテレビの情報を、「能動」で楽しむネットを使って補完する。

「人気」の可視化

はてなアンテナ登録数やSNSのフレンド登録数を、「人気の可視化」と見る人が出ることは避けられない。自分もはてなアンテナ登録数ランキングは面白いと思って見ている。でも、それはある一面のデータであって、自分が好きかどうかにそれを影響させる気はない。いくら、たくさんの人が読んでいても興味がないものはなかったりする。
こうやってランキングで可視化されたデータを、テレビの視聴率や、コンテンツの売上、携帯電話のメモリー登録数を友達の数と考える人がいるように、絶対視していくのが問題なのだ。人気ランキング以外の評価基準を抑圧していく。
価値観の多様化とよくいわれているが、実際にはそういう状況に耐えられないのだ。ネットは価値観を多様化するとよく言われているが、情報伝達力の強さのために、価値観の統一化をはかっているのではないか。
アンテナ派閥話は、アンテナ登録数などが個体認識できる数だから起こってくる。100以上ぐらいになれば個体認識でないが、10や20だと個体認識できてしまうため、誰が外したのかなどがわかってしまうからだ。登録数が少なければ少ないほど、登録一つがどんどん重い意味を持ってくる。
友人との親密度を視覚化する『ソーシャル・ファブリック』
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20050712205.html
以前Hot Wiredでこんな記事が出ていたが、こういうものが出来るとどんどん息苦しくなるんじゃないかと思ってる。これって、ホストやキャバクラ嬢の人たちが仕事としてやっていることを、みんなもやりましょう、ってことだ。
大人であっても振り回されるんだから、これが小中学生だったら…。現状のシステムとほぼ似た感じの小中学生向けSNSがあったとしたら、フレンド登録数をクラスの人間の人気が可視化されたと考える人間が多数だろう。これは、スクールカーストの強化になることは間違いない。
こういったことへの対策はできないんだろうか、人間関係のアナログさを表現することはできないんだろうかと考えていたんだけど、登録する/しないという0か1を選ぶ行為である限り、どうしようもないのかも。
なので、その人との「距離感」を数値化し、その数値を様々な場面に利用するというアイデアを考えてみた。初期値は誰とでも0。で、メールやら何やらで相手にコンタクトを取ったら、少しずつその数値が上がっていく。そのコンタクトへの反応があったら、ボーナスポイントがつく。コンタクトの頻度が高い人ほど、リストの上位にくる。以前、コンタクトを取ったけど、その後かなりコンタクトを取ってない人がいたら、教えてくれたりする。
って、これはソーシャル・ファブリックと同じシステムだ! 大体ずっと連絡を取ってなくても仲の良い友達とかいる訳で、コミュニケーションにはそういう曖昧さがあり、様々なレイヤーがあるのを、すべて同一線上で扱えると考えること自体が傲慢だ。システムとして考えてみるのは楽しいんだけどね…。