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最近はオーディオブログです

共同体としてのオタクの過去の議論

戦闘美少女の精神分析』をめぐる網状書評
http://www.hirokiazuma.com/project/ml-reviews/sentoindex.html

岡田斗司夫氏の「オタク is dead」絡みで竹熊健太郎氏の発言をちょっと発掘。2000年の話題。

タイトル:東−斎藤はなぜ噛みあわないのか?/「おたく」定義の混乱
http://www.hirokiazuma.com/project/ml-reviews/sento5.html
斎藤さんは「おたく」を定義づけることの困難を承知しつつも、「おたく的なるもの」そして「共同体としてのおたく」が実在することは疑いえないとして、それを自明の前提として『戦闘美少女』を執筆されている。他方、東さんは、宮台論文を引用しながら「共同体としてのおたく」はかつて存在したが、それは90年代に入って事実上消滅したのであり、現在メディアに流通しているそれは「オタクという幻想を共有する集団」に過ぎないのだとするわけですね。

タイトル: 「オタク密教」についての補足
http://www.hirokiazuma.com/project/ml-reviews/sento7.html
宮台氏が「コミュニケーションの進化史」(『制服少女たちの選択』所収)で行なった分類を借りれば、両者はともに「頭のいいニヒリスト」に相当するのでしょう。最初に「頭のいいニヒリスト」という人格システムの類型があり、これが80年代に「オタク・エリート」と「(マスコミ的な)新人類」に分かれた。80年代は資本の要請(たとえば西武資本)によって「新人類」組が優勢であったが、90年代にはこれが逆転し、オタクエリート(という名の新人類)がマスコミに浮上する。いわばサブカル・エリート間における「勝ち組」と「負け組」の勢力逆転劇があったのだ、というのが僕の見方です(ちなみにここで僕がいう「新人類」は、宮台論文での新人類の定義とは少し違いますが、今は横に措いておきます)。

僕があちこちで「90年代なんて存在しなかった」と言っているのは、こういう意味からです。すくなくともマスコミ的な表層を見る限り、90年代は80年代の延長なのであって、つねにそこでサブカルチャー領域のリーダー・シップをとっていたのは「80年代の新人類」だったのです。いわゆる「オタク・サブカル分割」というのは、僕の記憶では岡田斗司夫氏が96年頃に言い出した言葉ですが、これはきわめて党派的な言説でありまして、いうなれば中核派のボス(オタクエリート)が革マル(新人類=サブカル)を指して「あんなのは革命じゃない」と言っているようなものです。

制服少女たちの選択

制服少女たちの選択

宮台真司氏のこの書籍でのオタクと新人類話がかなり的確らしい。