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議論の信頼性ではなく議論相手の信頼性

烏蛇ノート - kikunosuke_a氏の陰謀
烏蛇さんの意見は「議論自体(中身)の信頼性」という点で考えればその通りだと思う。相手が、これだけの長文というコストをかけて書いているという点は自分も注目していて、その部分で真剣なコミュニケーションは成立しているのではないかと書いた。
でも、自分が反応したのはラヂオさんの記事であって、kikunosuke_a氏の記事ではない。ラヂオさんの記事で問題になっていたのは「議論自体の信頼性」ではなく「議論相手の信頼性」だった。そして、議論を打ち切られないためにはどうすればいいのか?という質問に対しては、そういう不安を持ちたくないのなら、ネット上に人格の担保をそれなりに持っている人を相手するしかないのでは、と書いた。
この読み違いの発生は何かなあと考えたんだけど、kikunosuke_aさんの意図を重視するかどうかなのではないか。この人はネタ宣言によって「議論自体の信頼性」がどう変わるかを観測しようとしていた。でも、反応を見る限り、「議論の信頼性」が下がっていると見てる人はいないようだし、自分もその点を問題にする必要性は感じなかったから、自分はラヂヲさんの問題提起のみに答えた。
なお、「言論の信頼性」とひとまとめにしているけど、「事実情報の信頼性」と「認識を元にした議論の信頼性」は別物だろう。前者というのは確かに問題だけど、後者はそんなに問題になるのだろうか。たとえば今回の議論って、何らかの事実やデータを元にした議論でもない抽象的な話で*1、それの信頼性とか言われても??としか思えない。でも、非モテというのは認識の問題の部分が多いので、意味がある人にとってはあるのかもしれない。

*1:だから興味を持てなかった