ARTIFACT@はてブロ

最近はオーディオブログです

菊地成孔氏のメガネ男子本から写真撤退に関する話

エスロピII@暫定退避
http://d.hatena.ne.jp/prse/20050923#c
コメント欄で菊地成孔氏本人がかなり補足説明をし、そこにオオツネさんが入って興味深い議論になっている。特に28日1時の書き込みは「分類」「ラベリング」「記号化」に対する説明として面白かった。
菊地成孔氏が言う「インターネット病」に関しては、これは二次創作系の同人誌などを発祥とする「あくまで著作権者の好意によるお目こぼしなのにそれを自明のものだと思ってしまう」の延長なのだろうと思っている。それが、ネットという情報発信が楽なメディアの登場によって一般化したと。
イブ・クラインのモノクロームのために:orz
http://keshiki.rdy.jp/blog/archives/2005/09/post_515.html
その辺ではハラさんに同意かな。
[Media][Law] けなす批評と資料貸し出し - diary.yuco.net (2005-09-27)
http://diary.yuco.net/20050927.html#p02
今回の批判的な批評やレビューに対して資料を貸さないという問題に対しての整理。
菊地成孔氏は書籍版の『CDは株券ではない』(ISBN:4835615638)について、事前に権利者に文章を見せた上で、CDジャケットの貸し出しをお願いし、権利者の一部からはCDジャケットを貸してもらえなかった話を何度か書いている。
しかし、面白いことにインターネット版の『CDは株券ではない』(http://www.bounce.com/articleset/articleset.php/135)では、すべてのジャケットの画像が使われている。ここでは、タワーレコードの通販システムを使っているので、おそらく個別に権利者に文章を見せて許諾を取っている訳ではないのだろう。
アマゾンを代表とする通販システムでは、通販システム側が権利者から許諾を取っているという前提で、誰もが書影やジャケットを使えるようになっている。これはまさにインターネットならではのシステムなんだけど、その辺を菊地成孔氏がどう考えているのかはちょっと興味がある。
この辺の資料貸し出しについては、コンテンツ業界は厳しめで、工業製品は緩めって印象。

はてなブックマークでサイト名を消す人

以前から気になっているんだけど、はてなブックマークでブックマークされた記事のタイトルからサイト名を消す人がいる。最初から入ってない訳ではなく、普通にブックマークしたら、サイト名が入るはずなのに消しているのだ。見かけるたびに直してるんだけど、これはサイト名で検索することもあるから。

優越感ゲームのプレイヤーを考えてみる

ネット上で話題になっている議論*1を興味持って読んでいるんだけど、その議論には参加したくない人というのはウォッチャーだ。
で、そのウォッチャーの中に議論に参加している人たちを嘲笑するような視点で、ネット上で言及する人というのをよく見かけるのだが、これがメタ化による優越感ゲームのプレイヤーなのだろうか。言及しないと気が済まない人たち。関西でいう「いっちょかみ」とでもいうか
ひどい人になると、かなりの意見を表明しているのに、自分は議論に参加していないという立場を崩さない人もいる。それ十分参加してるのに…。「○○には興味ないんだけど」といって、長々と意見書く人もこれかな。
モヒカン族 - モヒカン族反逆同盟@ARTIFACT - 名称募集
http://mohican.g.hatena.ne.jp/kanose/20050705/kemarashi
モヒカン族 - モヒカン族反逆同盟@ARTIFACT - 有名サイトが言ったことやネットの一部で妙に盛り上がっているものには、とりあえず何か言いたくなってしまう病
http://mohican.g.hatena.ne.jp/kanose/20050706/tokoya
※補足
http://d.hatena.ne.jp/strange/20050928#p1

それは他人のことをいえないのでは?

事前にこういうツッコミを想定してもう少し書き足せばよかった(笑)。
問題視しているのは、メタ化自体ではなくて、嘲笑や見下しの視点。メタ化と見下しの視点は繋がりやすいものではあるけど、同じものではないので。
具体的サンプルとしては、「○○や○○の議論をしているのはバカだと思っている」と言っていた人がいて、こういうのを想定していた。その人は、その後、その話題にガンガン触れていておいおい!と思ったという。どこだかわかる人がいてもコメントなどしないように。
これは顕名でサイトやっている人の例だけど、これ以外に、下のコメント欄のように通りすがりで書き捨てコメントしていく人もまさに想定していた人。議論に参加するつもりはないけど、とにかくコメントはしたい、という面で同じ。
バカ」みたいに具体的に言っていれば明言できるけど、嘲笑している、とか見下しているというのは、曖昧な部分があり、基準が難しい。自分は、メタ化はしても、嘲笑などはしないようにしているつもりだし、きちんと議論に参加しているつもりなんだけど、文章から嘲笑を読み取る読者がいるかもしれないとは思っている。
書いていて思ったけど、メタ化だけして、自分の立場を表明しなかったり、議論にコミットする意志を見せないと、「嘲笑」や「バカにしている」感がありそう。
整理してみる。
こにのつぶやき: SBMのコメント2
http://koni.tea-nifty.com/koni/2005/09/post_73ed.html
あと、ここで喩えられている剣闘士と観客というのはわかりやすいのでこれも。

  • 議論に参加しているブロガー(剣闘士)
  • ウォッチャー(観客)
    • コメントはしないでただ見守る人たち
  • 一行コメント系(やじを飛ばしてる観客)
    • 顕名(ブログやSBM
    • 匿名(2chとか通りすがり)
  • 議論に参加するつもりはないけど長文の意見を書いているブロガー(本人としては観客のつもりなんだけど闘技場に降りているのに気付いていない)

ここで問題視したのは一行コメント系以降の人たちか。考えてみると、SBMのコメント乱もこの問題が発生しやすい。平気で「こいつバカ」とか書く人いるしなあ。メタ化もしないでとりあえず罵倒だけしている。結局メタ視点ではなく、態度の問題である気がしてきた。

*1:といってもすごく狭い領域の

ネット貴族主義

隠居院 - 貴族主義への反感
http://inkyoin.exblog.jp/1132888/

ネタかどうかが分かるような仕掛けが欲しい、みたいなことをネットで書いている人には、30代くらいの世代が多いような気がするけれど、彼らって結構根に大衆差別というか、平均以下の50%の「リテラシーに自由でない」人への優越意識みたいなものを、無根拠に持ってるように思う。

自分はよくそういうことを書くけど、それはネットには2ちゃんねるというネタかどうか見極めるのが極めて難しい場所があるから。ひろゆき氏のいう「ネタネタとして楽しめる人でないと掲示板を利用するのは難しい」という発言こそ、まさに転叫院さんがいう貴族主義なのではないか?
ネタかどうかは誰にも分からない。そんな社会を目指したい」というのは、「電車男」で実践されたと考えている。誰も事実とは証明できないが、でも「事実」として消費されていく。この手法を利用すれば、多数の人を動員できることを証明してしまった。
だから、ブログのような顕名でやっているところでは、ネタを書くのならネタ信号を入れようよ、という提案をしている。ネタのわかる人をもっと増やそうということだ。しかし、そうした配慮をした上でも、ネタであることを理解しないで本気で怒る人が一定の割合で出るだろう。その人たちに対して感じるのは、優越感ではなく、そこまで配慮してもダメなんだなあ、という諦めかな。