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最近はオーディオブログです

イメージ戦略としての批判スタイルの問題

minx [macska dot org in exile] - 「ジェンダーフリーではないフェミニズムには反対」論の自意識過剰と不寛容
http://d.hatena.ne.jp/macska/20060721/p1

この議論で第三者に与えるイメージとして見た場合に興味深いものがあったので。

nanasi 『んーこのトピックでマチカさんの仰りたい事、分かりますし
毎回切り口が鮮やかで胸がすくような気持ちになる事もあるのですけど
ネットのあらゆる場所からネタを拾って、ご自身のブログで
嘲笑するような口調で高圧的にこきおろす(特に最近は、僕なんかにはそう見えるのですが)ってスタイル
傍で見ていて気持ちの良いものではないですよ。
そのブログ主のコメント欄で展開されればよいだけの事。
たかがブログ、全員がきちんとしたロジックを使用して
論理を展開しているわけでもないでしょうに・・・。
言論の自由と言ったらそれまでですが、ヒステリックな印象を持ちます。』

この指摘を見て、こう思われると損するなあと思った。相手をこき下ろすというのは、相手を説得するのではなく、相手の記事に反感を持った人間に共感させるための振る舞いになので、それがどっちでもない立場の人からすると、あんまりイメージよくないという。ネットだと、政治とか歴史認識の話題でこういうのを一杯見るけど。
理論がシャープであることと、それがよい印象を持たれるかはどうか別。唐沢俊一氏が松文館裁判での宮台真司氏を批判していた時に似た様なこと言ってたな。


kiya2014さんがコメント欄で引用しているのは、多分転叫院さんの文章だと思うんだけど、

自尊心を議論に持ち込んでいない人と、自尊心を議論に持ち込んでいない自分をパフォーマンスすることに自尊心を見出している人とは、区別が付かない。原理上。

それを区別する方法は明示化できない。というのも、それを明示化すると、自尊心を議論に持ち込んでいない自分をパフォーマンスすることに自尊心を見出している人は、その明示化された基準を自分の行動のルールとして取り込むので、再びその両者の区別が付かなくなってしまうからだ。

したがって、「自尊心を議論に持ち込むな」と言われた人のうち、ある割合は、自尊心を議論に持ち込んでいない自分をパフォーマンスすることに自尊心を見出すようになる可能性がある。

パフォーマンスの問題として考えるのならば、問題なのは自尊心を議論に持ち込むか否かではなく、自尊心を議論に持ち込んでいる自分をパフォーマンスするか、自尊心を議論に持ち込んでいない自分をパフォーマンスするかの違い、ということになる。

「自意識過剰」とか「自尊心」は煽りとしてしか使っちゃいけないんだろう。自分も対話する意志がない時にぐらいしか使わないし。自尊心ルールは、相手を判断する時に使うものであって、議論で使っても、単なる水掛論になる。