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政治運動のフォーマット

動員される「チャンネルボーイ・チャンネルガール」
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20051011/channelgirl
ここでは「左翼運動」を繰り返していると書いたが、実はそういった風景はかなりいろいろなところに見られる。たとえば、「新しい歴史教科書を作る会」の内紛劇というのは、大月隆寛氏が書いているのだが*1、これを読むと左翼運動の内ゲバと同じような方法で、大月隆寛氏を追放している。運動への疑問者となった大月隆寛氏をいつのまにか影ではずすように画策し、会議でいかに大月隆寛氏が代表としてふさわしくないかを吊し上げ、反省を要求する。「総括」という言葉が出ないのが不思議なぐらいだった。「新しい歴史教科書を作る会」の人たちは、もともと左翼運動経験をした世代だからというのはあるだろうが、別に左翼運動経験者でなくても、オウム真理教など、戦後の日本の政治・社会運動はこういったフォーマットに沿ってしまうのではないかと考えている。
そんなフォーマットの中の一つとして、70年代の過激な左翼運動から、市民運動になる過程にも、現在の動きを解く鍵があるのではないか?と思うところがある。市民運動は、過激な左翼運動から、自分たちの運動を差別化するために「普通の人による運動」というロジックを使ったのではないかと考えているのだが、これは保守系言説の中で「普通の人」を強調する*2のと通じるのではないか? 「右翼」は街宣カーを乗り回す危ない政治団体で、それとはまったく違うというのを強調するために「普通の人」と言っているように思えるのだ。
市民運動中核派などの極左グループが利用しようとして、市民運動側と極左グループで激しい主導権争いをしてきたように、草の根保守的な運動も過激な政治団体に利用される可能性は高い。しかし、そういった過激な政治団体への警戒心が薄いのが、最近の草の根保守的な運動という気がしてる。相手と敵対的活動をしているのなら、味方だというぐらいの素朴さ。
この辺りの歴史過程については、小熊英二氏的な仕事があれば、参考にしてみたいものだ。

*1:『あたしの民主主義』ISBN:462031420X

*2:政治系ネタで炎上するブログでよく「自分は普通の人だが…」みたいな意見をよく見かけるように