ARTIFACT@はてブロ

最近はオーディオブログです

オタクの歴史認識にリセットがあったと考えてみる

まだ興味深い反応があったので、そのメモとともに。
至好回路
http://www12.plala.or.jp/sikoukairo/zakki0502.htm#0223

アニメの場合、作画や演出の優れた作品を知った後、それを作った演出家やアニメーターの関わった作品を過去にさかのぼって追いかけることで、最初に出会った作品と同じ快楽を受け、かつ知識も増えるという快感があるけれど、「キャラ」や「萌」による快楽は、歴史や文脈がこれこれこうですよ、と説明されて、過去を遡ったところで快感が得られるわけではないからね。

今の主流が「キャラクター主導文化」(http://artifact-jp.com/column/otaten200106.html)と考えれば、この指摘にはなるほどと思った。
また、これを読んでちょっと気付いたことがある。宮崎駿などのように、アニメの監督は活動歴が長く、昔から活動していたので過去にさかのぼりやすい。しかし、30代程度の作り手だとさかのぼることがほとんどできない。
エヴァンゲリオン』は膨大な過去の作品の引用があったし、庵野監督作品もそれなりにあったので、従来のような文脈を重視して作品を鑑賞することが可能だった。しかし、『エヴァ』にショックを受けた人は多く、『エヴァ』が基準になってしまった人たちをたくさん生んだ。ここで歴史認識のリセットがあったとも考えられる。
そして『エヴァ』で一番ニーズがあったのは従来のアニメでは見かけないタイプの心理描写(思春期の心理を、もっと端的にいえば魂の童貞の心理を切実に描いた)だったのに、後続したアニメはあくまで演出技法などの影響に留まり、新しく生まれたニーズの受け皿とならなかった。
上の自分のコラムでも書いたけど、その受け皿になったのはエロゲーだった。それがライトノベルに移行しつつあるのが現在だ。そういった受け手の変容のニーズに応えたのが、リーフの『雫』や『痕』である。注意したいのが、これは時間軸的に『エヴァ』の影響ではない。あくまで同時期の発生。
さて、『雫』を制作したスタッフは、『雫』が実質的なデビュー作であったから、過去にさかのぼりようがない。商業にのるまえの作品や同人にまで手をつけるしかなかった。また、影響を受けた作品を探す人たちも多く、それによって大槻ケンヂの『新興宗教オモイデ教』が言及されたが、あくまでそれはトリビア程度の意味しか持たなかったのではないだろうか。作り手の中では繋がっていても、そういった事情を受け手は考慮せずに、受け手の中で新たに文脈を作られていったのではないか。
そして『雫』の後にムーブメントを作り出したエロゲーの作り手も、それまでのアニメと比べて、圧倒的に若かった。この作り手の急激な若年齢化はちょっと注意したいところだ。
エヴァ』的な精神を描く作品メディアが、エロゲーになったという時点でも、歴史認識のリセットが発生したのではないだろうか。そして、ここが現在深い溝となっているのではないかという仮説を立ててみる。
あと、『スーパーロボット大戦』の受容のされ方も関連していると思うのだけど、ここではひとまずメモに止めておく。


犀の目工房
http://homepage2.nifty.com/rhino40/dialy/2005/dialy05-2b.htm

 ここで重要なのは《自分史》です。
《自分史》という事は、その見聞き触れた範囲までのオタク文化が対象に過ぎません。
 しかし、今、オタクの歴史を語るにしても、必ず知らない分野が存在するので、それはもう仕方ありません。
 むしろ、ここまでオタク文化が多彩化した以上、固有の指紋のように異なるそれぞれの実体験したオタク文化の変遷にこそ、その歴史での資料的価値があると思います。

「おたく」の精神史 一九八〇年代論
これを読んで思い出したのが、大塚英志の『「おたく」の精神史 一九八〇年代』の扱い。あの本は後書きでも書かれているように、大塚英志の「自分史」である。にも関わらず、どうもあれを「正史」として受け取る人が多いことを知った。あの書籍が出た当時、当時重要なはずの話題が書いてないという反論をよく見かけたが、「自分史」と言っている以上、そのような言説はあまり意味がないと感じた。ただし、大塚が関わった事象に関する他の当事者の意見は貴重だが。
後書きで、もっとみんなが自分史を書けばいいと大塚は書いていたが、長年の大塚英志ファンとしてはこれを素直に受け止められなかった。おそらく大塚はあの世代だと他に同じような「歴史」が書ける人間はいないだろうと踏んだ上での、意地の悪い挑発だったのではないか。
単なる自分史を書いても、人はその歴史を面白がってくれない。面白がってもらうためには「史観」が必要だ。司馬遼太郎の娯楽小説がいつのまにか「歴史」になってしまったように。
また、客観性を…と考えて、年表にしても、何も知らない人がそこから流れを読み取ることは難しい。歴史に流れや物語が追加されないと「歴史」として認識されないのだ。

ネットと報道関係の書籍メモ

インターネットと“世論”形成―間メディア的言説の連鎖と抗争

インターネットと“世論”形成―間メディア的言説の連鎖と抗争

この本の情報をもらった際、再度検索したら他の書評も見つけたので過去の記事に追加。
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050222#endo
あと気になった本。
サイバージャーナリズム論―インターネットによって変容する報道

サイバージャーナリズム論―インターネットによって変容する報道



ネットと戦争―9.11からのアメリカ文化 (岩波新書)

ネットと戦争―9.11からのアメリカ文化 (岩波新書)

「いい女塾」ブログ論争

http://d.hatena.ne.jp/SNMR/20050225#p1

最後に――ブログを書くことは実に大変だ。そこに読者がいる以上、筆者の認識と読者の認識のギャップを限りなく小さく出来るように書けば、問題はさほど起こらないのだろう。言うは易し、実際は極めて難しいことだけれど。そして自分を含めネットを利用する全ての人へ、もっとネットのリスクを知った方がいい。今回の一件を眺めて、そう思いました。

全部をきちんと読んでないので事件に関してのコメントはしないけど、管理人のやりたいことと読者の希望のすれ違いというのはサイトを運営していく上での悩みではある。そのマッチングが上手い人がずっとサイトを続けていけるのだ。
電車男』との異同を論ぜよ
http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20050227#p1

「就活ブログ」に注目

上の論争もそうなのだが、最近就職活動ブログ、いわゆる「就活ブログ」界隈はかなりオモシロな存在な気がしてきている。あんなブログを書いている人たちを人事部の人が採用したがるのだろうか?という素朴な疑問から始まり、就活ブログが書かれる背景というのものに興味が至るのだけど、かなりの異文化圏なので、あんまりよくわからない。
この辺、起業ブームとかと絡むとは考えている。何らかのスキルがある人が順当に評価されて目立っていくということには何の異論もないんだけど、「とにかく目立ちたい!」って人が、起業ブームとか就活ブログ界隈には多い気がするのだ。そうじゃなければ、本人に承諾なしでプレスリリースを出すとか、斜め上45度を行くバカな行為の説明がつかない(笑)。
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050222#sakicho
そういえば、新宿のブックファースト2の店内をうろついたら、ブログ本がまとまって置いてあったところがあって、お、ここがコンピュータ書籍か、最近出たというGoogle経営本が置いてあるに違いないと思ってみたら、起業コーナーでトホホ気分に。

ラジオで新刊というCMで聞いただけだったのでタイトルとかよくわからなかったんだけど、これっぽい。なんか書評が散々だなあ。

はてなには山本直樹好きがどのぐらいいるか

http://d.hatena.ne.jp/kurimax/20050226#1109368835

はてなには山本直樹とか好きな人が多そう。

自分のイメージでははてな山本直樹に言及している人はそんなにいなかったので、客観的なデータとしてキーワードを見てみる。それなりにあるんだけど、作品についてまで言及している人はあまりいない感じ。だから、少ないという印象だったのか。山本直樹の立ち位置って森山塔デビュー当時は、エロ劇画ではない新世代エロ漫画として、青年誌で活動しはじめると「時代の問題意識を鋭く描く漫画家」みたいなポジションに、そして現在はよくわからない立ち位置だ。
個人的には、昔雑誌で読んだりしたもの単行本を買うことはなく、あまり興味がないといったところ。