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最近はオーディオブログです

エロゲーの自由度が高かった時代

日日ノ日キ - エロをめぐる冒険〜私たちは素敵な何かを手に入れられるのか?私たちは素敵な何かを作れるのか?〜
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20061019/1161240642
エロが入っていたら何やってもいい!一時期の山本直樹のマンガもそんな感じだったなあ、と思い出します。エロゲーも細分化していってるので、今や無理矢理エロを入れなくとも一定のファンがつくようになった(←今ココ)で、エロはどんなものの最初に居るようです。

本題は重いので、小ネタに反応。
自分の印象でいうと、エロゲーは1995年末に『雫』が出て、エロゲーでこういうのもあっていいんだみたいな認識ができて、Windowsが普及し始め、参入メーカーが一挙に増えた1999年ぐらいまでが一番「エロが入っていたら何やってもいい」という時代だった感じ。
さらに言うと、その当時のエロゲー業界は昭和40年代生まれのオタク第二世代にとっての自由な制作の場所だった。アニメや家庭用ゲームは年功序列で上が詰まっていたから、エロゲー業界にいったと。
今のエロゲー業界は受けるフォーマットが学園モノなどほぼ決まってしまって、大変そうだ。エロゲーのなかの一部のテイストは一般作品でも使える様になったから、エロゲーの中でやる必然性が薄いんだろうけど。
エロ漫画も、似た様な歴史を辿っているといえる。今『エロの敵』を読んでいるんだけど、エロ本文化と言われた様なエロ雑誌のモノクロページ的センスは、エロ雑誌自体ではモノクロページがなくなってしまったが、他の雑誌で発揮されるようになったという。このように、エロのジャンルで発生したセンスは、その後他のところに広まって、その発生元では衰退するというのは、いろいろな世界で繰り返されているのだろう。