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「傷付ける性」としての男性、そして少女化

徒然庵日記 -  百合色の夢
http://d.hatena.ne.jp/chunyan/20050707/1120755365
純粋なココロ: 『男性版やおい』が、今まさに誕生しつつあるのかも知れない
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2005/07/post_cbf5.html
この“「傷付ける性」としての男性”の理論的バックボーンに関しては、chunyanさんが言うようにササキバラゴウ氏の『〈美少女〉の現代史』で説明されている。著書参照となっているだけで、どの書籍なのか書かれていなかったので補足。

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

あと、純粋なココロのコメント欄を見ていて思ったが、ササキバラゴウ氏の本でも「昔からあった」ということはきちんと指摘されている。どうもこの辺の知識共有なしで議論されている気が…。
で、この辺りを2001年から語っているのが更科修一郎id:cuteplus)だったりする。当時、これが雑誌に掲載された頃、ネットの個人サイト界隈では電波電波言われてた(笑)。chuyanさんのところの下のコメントみたいなのと同じ反応だった。

# RSR 『不十分な知識と説得力のない考察、一人よがりの解釈を前提に、
不明確な根拠と不適切な論拠を基にした支離滅裂な主張。

全く説得力がありません。
自分の思考を正当化する理屈を無理矢理にひねりだしてくっつけ、
垂れ流しているようにしか見えません。』 (2005/07/12 12:16)

という訳で、過去の言説が知られないのは当事者として悔しいので紹介。
長いのだけど該当部分を全文引用する。
N.C.P. Special〜Natural Color Phantasm 2nd season
『カラフルPUREGIRL』(ビブロス)2001年12月号掲載
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/cuteplus/ncp/cpg16.html

【『AIR』という転回点】

 そして、現実の少女たちに取り残された男性が抱く孤独感とノスタルジーによって、美少女ゲームに於ける少女幻想は、原型を留めないほどにカスタマイズされ、独自の進化を遂げてしまった。

 その代表例は、言うまでもなく、Keyの一連の作品だろう。女性を抑圧し、少女幻想を破壊し、隷属させることで自分が男性であることを再確認する従来のポルノグラフィでは孤独感を解消することができなかった男性たちにとって、女の子を取り巻く抑圧から解放するプロセスを描いた『Kanon』や『AIR』は、いわば、不可視のポルノグラフィとして機能した。

  既に従来の強い男性像を見失っているユーザーにとっては、少女幻想を破壊する外部を取り除き、「永遠の少女」を作り出すことが男性としての達成なのだとも言えるし、穿った見方をすれば、図々しく現実を生きている強い少女たちに対して、孤独の檻からささやかな復讐を行っているのかも知れない。

 それは、戦後民主主義の状況下に於ける家族像の変化、父親という存在の定義の変化と無関係ではないように思う。つまり、家父長制的な強い男になりたいのではなく、核家族的な優しい父親になりたいのだという願いが、オタク化した男性の達成願望として表面に出てきたのだけども、従来のポルノメディアがそのニーズに対し、あまりにも旧態依然だったことが原因でもある。

 ところが、『AIR』に至っては、女の子を抑圧から解放するプレイヤーが、一転して抑圧する側に回りかねないという矛盾を解消するために、プレイヤーの存在そのものを消してしまうところまで行き着いてしまった。ここでは、達成願望そのものが極めてミニマムな方向へと進化を遂げてしまっている。既に現実の少女に勝利することすら望んでいないどころか、ユーザーの理想である「永遠の少女」に自ら敗北することで、その内面に永劫回帰することを望んでいるようにも見える。そして、そこにはもう、父性の欠片も存在していないが故に、既にホームドラマとしては不完全なものでしかない。

 同時に、プレイヤーが求めるままに、舞台の上で必死に演じようとする役者の哀しみに対し、物語から切り離されたプレイヤーは、ただ、切断面を眺めていることしかできない。だけども、あらゆる繋がりを断ち切られていく感覚は、非常に辛い感覚ではあったのだけど、個人的には自然だと思えた。

 胎内回帰願望を内在させた殉死願望、とでも言うべきなのだろうか、父性を丹念に排除した物語によって、男性としての身体性を否定することは、現代を生きる男性の孤独感と結びついた達成願望の一つとして浮上しつつあるのかも知れない。だから、それを単なる破滅願望の一種と言い切ってしまう気にはなれない。

 『AIR』インタビューの時に、誌面には収録されなかったのだが、筆者は麻枝氏に「他者との関係性を巡る話として見ると、美少女ゲームというよりは、女性向けのボーイズラブに近い雰囲気があります」という、かなり失礼なことを言った記憶がある。しかし、今となって思えば、そういう欲望のニーズが潜在していたことに、筆者は気づいておくべきだったのだ。その台詞自体は、かなり思いつきで言ったのだけど、別にジェンダー論に持っていきたい訳ではなかったからだ。

 つまり、性差を越境したいのではなく、ただ、無効化したいだけなのだ。性差が発生する以前に立ち戻りたいだけなのだ。もう一度やり直すために。

また、COCOの長いコラムではよりブラッシュアップされていく。
Natural Color Phantasm Extended Version 『月姫』までの長い途─ぼくらのリアルと美少女ゲーム
『COCO』(エンターブレイン) Vol.2/2002.07掲載
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/cuteplus/ncp/coco01.html

【004】
 80年代アニメの影響によって進化してきた『ToHeart』までの美少女ゲームに対し、『ToHeart』の2年後に登場した『Kanon』(Key)以降、その精神性はむしろ、70年代後半の乙女ちっく少女漫画へと遡っていくことになる。

 70年代後半の乙女ちっく少女漫画が「少女幻想」という抑圧から、フェミニズムによって少女たちが解放されていく以前の表現、抑圧下で生まれた表現であるが故に、フェミニズムによって抑圧された男の子たちのための物語として機能したのだ。つまり、この時代の少女漫画が発見した少女の自意識と身体性に対する不安が、現代を生きる美少女ゲームユーザーな男の子の自意識と同期してしまったのだ。

 そして、美少女漫画が敗退した理由は、この点を二重の意味で勘違いしたことにある。90年代初頭の成年コミック規制による抑圧が、時間が経つに伴って機能しなくなったことで、ユーザーの欲望に忠実な「だけ」のポルノが蔓延してしまったこと、そして、解放された婦女子の表現メディアとして勘違いされてしまったことだ。これは、岡崎京子が『漫画ブリッコ』出身でありながら、大塚英志というオタクの支配を逃れ、90年代女子のサクセスモデルになったとされる神話の悪影響だろう。

 過剰な凌辱描写に傾斜していく一方で、恋愛を伴わない婦女子の奔放なセックスを肯定してしまった美少女まんがと、肯定することを拒み続ける美少女ゲーム

 団塊ジュニア以降の世代のオタクな男の子は、性的な加害者であることを忌避するあまり、自分の身体性からも逃れ、イノセントな存在として自らを定義したいという欲望を抱いていているのだが、その一部はイノセントな存在であろうとするあまり、被害者であることを選び、ショタややおいなどのジェンダー的なポルノへと向かっていった。

 しかし、美少女漫画の編集者たちは、そうして複雑化していく欲望を汲み取ることに失敗し、オタクな男の子たちは安全で健全なポルノメディアとして美少女ゲームを選んだのだ。

 かくして、オタクのためのポルノメディアとして、美少女漫画は美少女ゲームに敗北し、美少女ゲームへ向かうユーザーの欲望は更に重層化していく。

 多様化していく欲望に対し、漫画を含めた既存の物語表現メディアの容量では、ユーザーの物語消費スピードに追いつくことが難しくなっていたのだ。

現時点でのこの話題に関する最新原稿は、ユリイカの人形特集の号の「ギャルゲーにおける人形表現 自己去勢するオタクたち」である。
http://www.seidosha.co.jp/eureka/200505/

ユリイカ2005年5月号 特集=人形愛 あるいはI,DOLL

ユリイカ2005年5月号 特集=人形愛 あるいはI,DOLL



※補足
感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

はてなブックマークのコメントによればこの書籍も参考になるとか。

上の本に触れていた松谷さんの記述より。